野球と私I

今回も教え子自慢です。
次にプロ野球に進んだ生徒は、塚本善之君(西城陽高校から広島東洋カープ;投手<右投右打>)です。長身でバネがあり、角度のあるボールを 投げる投手でした。ちょうど、鉄人衣笠選手(平安高校出身)が、連続試合出場の 世界記録を達成した年のドラフトで4位指名だったので、広島グランドホテルで 行なわれた衣笠選手の記念パーティに招待され、記念品までいただき、また京都出身ということもあり、身近に話をしていただいたり、よい記念になりました。
さて、4年間在籍したのですが、芽が出ないということで、退団するとの相談を受けた時の話です。「どこか、先を紹介しようか。どんな仕事がいいんや。」と僕が言うと、 「先生、プロの世界は、一般の世界の何でも 10倍です。たとえば、結婚式のお祝い、普通なら3万円ぐらいですが、プロでは、30万円です。だから、一度プロの世界に 入ったので、やはりプロの世界でやっていきたいと思います。で、競輪の選手を目指そうと考えています。親を説得していただきたいですが、・・・。」僕は、プロの世界との違いに唖然としましたが、彼のお母さん(お父さんは亡くなられておられなかった)に 「どうですか。彼の決意はこうなんですが、・・・。」と説得の手伝いをしました。
その彼は、現在競輪のS級選手として活躍しています。私自体は、競輪はしませんから、よく解っていなかったんですが、西城陽高校の野球部後輩で広島大学に進学したM君が、時々、塚本君の活躍が掲載された地元の新聞の切り抜きなどを送ってくれましたので、競輪選手としての活躍を知ることができました。ちなみに、彼の収入は、当時、僕の2倍ほどだったので驚きました。現在も元気で頑張ってくれているので、喜んでいます。

3番目にプロに進んだのは、田口茂樹君(西城陽高校から近鉄バファローズ;投手 <左投・左打>;塚本君に続いて西城陽高校から2年連続でのドラフト指名でした)です。 彼は、ドラフト3位で入団、当時近鉄の仰木監督をして、「高卒でこんなまとまったピッチャーは見たことがない。」と言わしめた程のピッチャーでした。 アメリカへの野球留学などを経験し、前途洋々でしたが、2軍で何勝か挙げ、ジュニアオールスターにも選出される活躍をしていた矢先、肩を故障をしました。 手術して再起を目指したが、コーチの指導が合わず、フォームで悩み、投手を断念せざるを得なくなったのです。

ちなみに、彼の代わりにジュニアオールスターに選出されたのが、後の4番バッター、有名な石井選手でした。彼はMVPに輝き、賞金100万円を手にしたのでした。石井選手は何という強運なのでしょうか。

その田口君のエピソードですが、ある日、テレビでプロ野球ニュースを見ていた時のことです。当時、注目の新人左腕の阿波野投手(亜大出身;新人王になった)が、取材を受けピッチング練習をしていました。同じブルペンで練習を終了した田口投手が、引き上げる際にその阿波野投手の後方の通りにくい狭い場所をしかも遠慮がちに大きな身体を小さくして通るのが、テレビに 映ったのです。彼は、高校時代の僕の教えを守り、「人の前を通らない、もし、どうしても通る必要のある時は、『前を失礼します。』と挨拶して通りなさい。」の通りの行動をしたのです。僕は、すぐに彼に電話を入れて「田口、テレビ見てたよ。」と、さらに僕は「社会では傍若無人はいけないが、プロなんだから、阿波野投手の前を通って、もう一度取り直しをさせるくらいじゃなきゃだめだよ。」とアドバイスをしました。 心優しいのが、彼の良いところなんですが、ちょっと心配になりました。

彼は、打撃でも非凡な才能を持っていましたから、投手を断念しなければならなくなった時も、僕も含めて周囲(球団)からの「打者に転向してもやっていける。」という言葉にも「自信がありません。」と言って、4年間のプロ生活を終えたのです。プロの投手コーチに、あれやこれやとフォームをいじくり回されて自信を失ったのが、1番の理由だということです。今は、京都で普通の会社員として、やさしいお父さんとして楽しい家庭を築き頑張っています。人間的にはとても素晴らしい彼です。今もよく会うのですが、彼には、普通の生活の方がよかったのです。やはり「プロ向きの性格というものが、あるんだなあ。」と塚本君と比較して思ったものでした。