前回、岸本先生に感謝というところで話が終わったのですが、、もう少し 岸本先生についての思い出話をさせてもらいたいと思います。
「岸(きっ)さん」の愛称で慕われていた岸本先生の思い出は、保健や体育の
授業のトイレと10円玉ですか。足がしびれてしんどかったし、一瞬痛かった ですね。なぜか、僕はよく罰としてやらされていました。懐かしいですね。
注:トイレとは、グラウンドでは溝をまたいで、教室では机と机の間隔を20〜30cm
ぐらいに狭くして、またいで座る岸本先生が考え出した脚力のトレーニングです。 和式トイレに入って座っているのと同じ格好なので、そう言っていました。
よく覚えていないのですが、罰ゲームのようなものでした。 10円玉については、3つ使って、真ん中の1つを少し後方に引いておいて
パチンと髪の毛を挟むやはり罰ゲームでした。 さらに、擦りゲンコツというのがあったのも思い出しました。
さて、僕と岸本先生を結びつけるものに、野球と授業以外にもう一つ、ソフト ボールがあります。
その当時、岸本先生は岡山県の教員ソフトボールチーム「鳥城クラブ」の監督 もしておられたのです。「鳥城クラブ」は、第1回全国教員ソフトボール大会
優勝の名門チームです。野球部の活動が終了したあと、御南中に鳥城クラブのメンバーが集まってきて
練習を行なっていました。これもなぜかわかりませんが、「円山、お前残っと
け。」と言われ、一人だけ残ってソフトボールの練習の手伝いしていました。その時、左投げの投手(確か高校の先生だった)が、僕を捕手に投球練習をされ、七色(実際には8方向に曲がる)の変化球を見せてくれたのは、強烈な印象として残りました。
さて、時間は、それから8年程過ぎた後のことになりますが、教員になって
1年目の夏、まだ僕は宇治高校の野球部コーチでしたので、京都の、こちらは、
「紫クラブ」という教員のソフトボールチームに予選と全国大会の期間だけは、参加させてもらっていました。先輩たちがすごい人たちだったお陰で、以後、数年間、教員の全国大会には毎年連れて行ってもらいました。
その全国大会で、岸本先生と再会することになったのです。もう岸本先生は監督を退かれておられたんですが、全国大会の応援には必ず
来られており、毎年会って話ができるのを楽しみにしていました。 紫クラブの成績は、僕が入る前はベスト4の常連で全国優勝を狙えるチーム
だったんですが、なぜか僕が入ってからはベスト8が最高成績です。
さらに後日談ですが、ソフトボール男子では、京都国体から、成年二部(40歳以上の部)という種目ができ、40歳になった時、京都選抜に引っ張りだされ、近畿予選を勝ち抜き香川国体に出場、5位になったのが、僕のソフトボールの全国大会での最高成績です。
ちょっと横道にそれて、露無秀子さんの話、8月の同窓会で聞いた話ですが、露無さんは、つい最近(40の後半)まで、現役でソフトボールをやっていた
そうです。小学校時代からスポーツウーマンでしたから、さも有りなんと感心 してしました。僕なんか、体育の教師をしていながら、デスクワークが多くなり、
最近はすぐに肉離れを起こす始末で体力の衰えを実感するばかりなのに、・・・。
さらに、それに料理の腕前もたいしたものなのは、この掲示板で立証済みですね。
その露無さんのお母さんとうちの母が小学校時代の同級生であったことを 今回の同窓会の連絡をもらった時初めて知りました。同じソフトボール好きと
併せてちょっと不思議な縁だと感じました。
(これもまた、35年振りの同窓会のお陰ですね。)
何回かの教員大会・一般男子選手権・国体などのソフトボールに参加させてもらうきっかけも、今考えれば、岸本先生がつくってくれたものだったのです。
だいぶんあとの話ですが、岸本先生が校長先生になられたという話を聞いて、大変喜んだことを覚えています。岸本先生いつまでもお元気で!!